母里吉太夫~母里太兵衛の嫡男 玄界灘で死す

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中津城

 母里吉太夫(きちだゆう)は、1582年前後の生まれと推定できる。
 父は母里太兵衛で嫡男。
 母里太兵衛の正室は、大友宗麟の娘であるが、黒田家と大友宗麟が接触するようになったのは、1586年頃からである為、母里吉太夫の母は正室・大友宗麟の娘ではないと推測できる。
 もしかしたら、大友宗麟の娘を迎える前に、最初の正室がいたのか?、側室の子、もしくは養子だったとも考えられるが、母は不詳。

 子供の頃から、同年代の黒田熊之助(黒田官兵衛の次男)と共に勉学・武芸に励んだとされる。

 豊臣秀吉の朝鮮出兵。
 得体も知れない外国での合戦と言う事もあり、何が起こるかわからない。
 その為、黒田官兵衛は、次男・黒田熊之助が初陣を願う気持ちを理解しつつも抑えて、中津城に残るよう指示した。


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 文禄の役を終え、慶長の役である1597年、黒田熊之助は朝鮮出兵に参加していた父・黒田官兵衛や兄・黒田長政の役に立ちたい願い、朝鮮で戦っている陣を訪れようと独断で考えた。
 そして、黒田吉松(黒田一成の弟)・木山紹琢らを誘って朝鮮半島に渡る為、ひそかに小舟を出したと言う。
 しかし、その途中で暴風に遭って一行を乗せた船は沈没。
 黒田熊之助(黒田官兵衛の次男)、黒田吉松(黒田一成の弟)・木山紹琢らと共に、母里吉太夫も行方不明となった。(享年16)

 この黒田熊之助・母里吉太夫らの死は、大阪の天満屋敷で知らせを聞いた黒田官兵衛の正室・光姫も嘆き悲しんだと言う。

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